「羨ましい」という感情から解放された話
最近、ふと気づいたのが「羨ましい」と思うことがなくなったことだ。
多くの人が羨む金持ちについて、彼らは多くの人の役に立っているから収入が多いのであり、その能力があるのですごいなと感心するだけである。お金や地位は単なる結果に過ぎないと考えている。
別に欲がなくなったわけではない。
仕事のキャリア、恋人、住居、生活環境、趣味、友人知人、仕事上の人間関係、収入など、多くのものを手放して孤独や絶望と隣り合わせの日々を過ごし、身一つの状態に戻り、むしろ以前より「欲」は強まる状況になった。
にも関わらず意外と平気なのだ。
もちろん多くを手放した際は、強烈に後悔して生きる意「欲」さえも失ったが、考え方を変えて残っているものを数えるようになれた時、不思議と生きづらさが減っていた。
どういう理由であれ、人生に純粋なマイナスということはないようで、失った分だけ何かを得られるようだ。それが失った分の補填をする程の影響力を持つのか現段階ではわからないが、とても良い「見方」を得られたように思う。
その見方を端的にいうと、生は苦であり、十人十色であり、幸せは常にそばにあるということである。
生は苦
生きることは苦しい事であり、生きている間は常に修行中であるという認識である。
仏教でいう四苦八苦からは逃れられず、誰しも等しく悩みを抱えていて、一般的に多くの人が望むような良い境遇を得た人はそれに応じた悲しみや苦しみが付きまとい、相応の悩みも生じてしまうと納得できた。
普通の人が理想とする「悩みのない人生=幸せ」は存在せず、外的環境を劇的に向上させても得ることはできないし、むしろ大きな苦しみに直面するという事実に気づいた。
十人十色
この世で全員が太陽になれないのだから、他人を見てそうなれない自分を否定して相手を羨んでも仕方ないと気づき、納得することができた。
以前であれば太陽になろうと必死になっていたが、歳を重ねたこともあり良い意味で自分に諦めがついたのだ。
個々人にはそれぞれの役割があり、それで社会と繋がれば良いのだなと思うことができたのは、以下の詩を読んだからである。
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丘の上の松が無理ならば
谷あいの低木になれ。–だが
小川のほとりにある最も美しい低木に。
木になれないのなら、藪(やぶ)になれ。
藪が無理ならば、一握りの草になれ。
そして、大通りを楽しくしてやれ。
カワマスが無理ならばバスでよい。
–だが、湖の中で最も生きのよいバスに!
我々は皆が船長にはなれない。
水夫になる者もいよう。
一人一人が何かすることがある。
大きな仕事もあれば、小さな仕事もあろう。
そして、しなければならない務めは手近にある。
大通りが無理ならば、ほんの小路でもよい。
太陽が無理ならば、星になれ。
成功と失敗を分けるのは大きさではない。
何になろうと最上のものになれ!
-ダグラス・マロック
(翻訳の参照元:「道は開ける」P229~P230より)
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今では仕事があることが有難いと思えている。
社会との繋がりを絶たれた状態ほど辛いものはないと知ったからである。
幸せは常にそばにある
幸せとは、現在認識している地点よりも上昇していると感じた時に発生する感情であると本多静六が語っている。なので、認識している地点を上げすぎると日常が全て不幸に感じられてしまう。
本当は幸せなことが日常に沢山あるはずなのに、僕たちはそれを普段あまり認識せずに生きており、自分にないものばかりに目がいくようになってしまっている。
普段からあるものが「当たり前」になってしまっているからだ。
この機能は仕事でスキルを向上する時には非常にプラスに働くが、幸せを感じるという場面ではマイナスに働いてしまう。
なので、僕たちは忙しい毎日の中で意識的に認識をリセットする必要がある。 そのためには、不幸を感じさせる「当たり前」から、反対語である「有難い」と思えるようになることである。
幸せを感じるためには認識している地点を下げて何気ないことにも「有難い」と思えるようになることが大切であり、逆にそれができないようだと、いくら金持ちになっても永遠に不幸のままとなってしまう。
ここで大切なのは現状に満足して成長しないことと、認識している地点を下げて幸せを感じることは別物であるということ。
欲が向上心に繋がることはよくあるが、幸せを感じることとは両立できるので心配せずに日々の中に幸せを感じながら向上すれば良いと思う。
最後に
「羨ましい 」と思うことがなくなると、周囲の人から色々な話を聞くことが多くなったなと感じる。多分、妬まれるという不安を与えない態度が「安心」して話せる相手として映ったのかなと。
もっと「安心」というイメージを与えることができるような人になりたいと思う。
おわり。